筆塚の由来

筆塚(本法寺境内)写真

当本法寺の境内に筆塚を建立したのは田中千代先生です。
田中千代先生は、書道にひたすら研鑽し、非凡な活躍をしました。

 

田中千代先生の略歴
明治23年1月17日新潟県柏崎で生まれ、幼少の頃から書に親しんでいたことがわかっています。
東京の藤村学園音楽体操学校を卒業し、雙葉(ふたば)小学校教諭となり奉職していました。大正初期の頃、縁あって弁護士田中一郎氏と結婚、二男二女の母親として子を育てました。その傍(かたわら)ら幼少の頃から書に親しみ天性の資質もあったことから、田代秋鶴先生に師事して書に専念、自分の今後の人生にとって書道の奥義を探究することが、ひとつの大きな指標となりました。

さらに、田代秋鶴先生の紹介で漢字の書道ばかりでなく、かな文字の書の権威である尾上紫舟先生について、かな文字の書を学び、日本独自のかな文字の優美な心にふれ、これこそ自分が将来進むべき途との思い、かな文字の書の研鎖に一意専心努力を重ねました。
昭和15年 東京四谷見附に念願がかなって「竹生会」という書塾をひらき、門下の子女育成に努めました。このとき田中千代先生は、50歳でした。昭和23年第一回日展のとき、書を搬入し、栄えある入選をかちとることができました。
田中千代先生自ら求めた書道研讃が実を結び、前途に明るい第一歩を踏みだしました。この間、雙葉高女、女子学院、京華高女等で教鞭をとり、婦女子の書道育成に尽刀してきました。
そして昭和25年には、全日本書芸文化院の創立と同時に総務を担当、書道の普及に貢献したことで知られています。
昭和31年には、第一回個展を銀座村松画廊で開催し、多くの書道を愛好する人々の共感を集めました。その翌年から昭和58年に至るまで、毎年田中千代先生の個展と竹生会門下生の書展が、銀座の村松画廊で第27回まで開かれていました。
昭和37年 田中千代先生は日本書学院発足と同時に参加し、その院の審査員となりました。昭和38年には渡米し、ボストン博物館東洋館に田中千代先生の作品を寄贈し、人々の称賛を得ました。また、ロスアンゼルスで個展を開き、日本古来の枯淡の味わいのある風雅な書道の醍醐味を、外国人の人々に強い印象をあたえたことで知られています。昭和42年 第一回東京タイムス書道展から審査員となり、各賞選考委員をつとめました。

田中千代先生は昭和52年3月6日 年来の悲願であった毛筆精霊の功徳報恩のため、菩提寺である浅草本法寺の境内に筆塚を建立奉納されました。
田中先生本来の意思は世のすべての書道愛好家が供養のため、この筆塚をお使い下さることは、先生が日頃胸中に温めていた大きな願いでありました。
当寺に筆塚を奉納建立した当日は、斯界の諸先生及び竹生会門下生が列席し、本法寺住職西川かん海帥が奉告文を拝読して、筆塚建立の開眼法要が営まれました。この時、田中千代先生は87歳の高齢でありました。
昭和54年には、ご高齢にもかかわらず東京タィムス西ドイツ書展にも参加、レールシ市ハーネスブルグ城美術館に田中千代先生の書を寄贈しました。

●昭和55年には、田中千代先生と西川鑒海(かんかい)帥との間にひとつの挿話がありました。
無盡(むしん)という仏教上の言葉は、西川鑒海師がつねに唱導されて人々に話してきたが、この無盡という意味は、広大無限の功徳を内包しているという意味がふくまれており、西川かん海帥の最も好きな仏法の教えとして、常日頃、檀信徒の方々に話されてきた教えでした。当寺書院の落慶にあたり、当本法寺の檀信徒であり、世に知られた書家の田中千代先生にお願いして、無毒という字を揮毫(きこう)された扁額の立派な作品であります。田中千代先生の真華な心のこもった素晴らしい作品で、現在書院の中央の欄間に飾られており、当本法寺の寺宝として大切に所蔵されています。また、檀信徒の方々に配付される『本法寺だより』の題字も田中千代先生の書で、本法寺の檀信徒の皆様方に親しまれています。

田中千代の書むしん

●昭和56年頃から家に引き篭もり静養することが多くなりましたが、身体の調子の良いときには菩提寺である本法寺に墓参にみえ、筆塚にも花をお供えになることが何よりの楽しみのようでした。昭和61年以降は病床に臥することが続き、昭和62年2月13日薬石効なく、永年にわたり書道一途に身を捧げた立派な生涯を閉じました。ときに先生は享年97歳でした。逝去時の田中千代先生の役職は、次のとおりです。
無心会同人理事
全日本書芸文化院総務長
独立書人団会員
東京タィムス書展各賞審査委員
竹生会主宰
このように田中先生と本法寺は深い法縁で結ばれています。こうして筆塚が誕生しましたが、今後書道を愛好する人々の筆塚として親しまれ、末永く多くの方々に筆供養をして頂き、発展することを希望しております。